「美」について

「美しい」という言葉は何を形容するかによって意味がちがう。

「美味」といい、「美人」といい、また「美しい自然」といい、「美しい」絵画という。

時代による趣味ーと仮にいうこととしてーのちがいも著しい。

たとえば美女の理想は、イタリアの文芸復興期には肉づき豊かであり、今日の流行では何よりも細さをもって貴しとするかのようである。

清長の美人の長身痩躯と春信の女のほとんど病的な手足の矮小を比較すれば、一般に美人の典型を想像することの困難を察するに十分だろう。

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清長の「美人」

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鈴木春信 作

自然の風景についても同じ。

わが国の古代には山岳信仰があった。しかし高山を美とする習慣があったかどうかは大いに疑わしい。

日本アルプス」を賞するのは、その名も示すとおり、深山幽谷の美を発見した西洋ロマン派の影響が及んだ後のことであろう。

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私は昔1950年代に、ある美術雑誌がパリ在住の芸術家数十人に、レオナルド・ダ・ヴィンチについての意見を求めたときのことを思い出す。

その半数は、「画聖レオナルド、その作品こそは絵画を定義する」と答え、他の半数は「甘い通俗性の元祖、何の興味もない」と答えていた。

今日「美」について肯定的に、しかも十分明瞭に、語るのは芸術家ではなくて、数学者または物理学者である。 

彼らがたとえば古典熱力学の体系を美しいというとき、その意味は、理論の単純さ、体系の内的斉合性、場合によってはその構造の「シンメトリ、ー」を指すだろう。それが美的感動をよびさます要件である。

たまたま週刊誌の拾い読みをしながら、プリンストン高等研究所の物理学者の短い文章に出会った。

そこには、実にしばしば「美しさ」とか「美しい」という言葉がでてくる。

たとえば、「ブラックホールの数学的な美しさ」とか「科学者であることの主な報酬は、権力でも金銭でもなくて、自然の超越的な美しさをかいま見る機会のあることだ」という。

要するに、芸術家は「美しさ」を憎悪し、数学者は「美しさ」に感動する。

これがわれわれの住んでいる世界の現実であるらしい。

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 私は旅をつづけ、ある初夏の日の午後、イル・ドゥ・フランスの麦畑のなかをかねての友人と共に車を走らせていた。

久し振りに訪ねたサンリオの教会の内陣の美しさは、私の脳裡に残像のように鮮やかに残っていた。

窓外にはおだやかに起伏する麦畑と森が拡がって、私たち二人のほかには人影もなかった。

加藤周一「美」について より
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